昭和47年7月23日 特別奉修委員
                          中村良一


私と一緒に、あの、御祈念をさせていただくと言うのは、ここの美登里会の方達だけですよね。美登里会ていうが、特別奉修委員の方達だけですね。私も、全然、御祈念という事を致しませんでしょう。もう、あの、天津祝詞も大祓いも、拝詞も、あの、この時だけ、日曜、一週間に一遍です。私は、だから、御祈念をするのは。しかもだから、これに参りあわせなさった方だけが、一緒にあの、ね。私が先唱して、皆さんが御祈念をされる、という様にですね。私の信心というものは、段々段々、頂き難くなってくると思うですね。まぁ、いうならば。なぜかと言うと、私が、少しづつでも進むという事は、それだけ、やはり、高度なことになってくるのですから、もう分からない、何を言っておるか。という事になるのじゃないでしょうかね。
何時のことでしたかね、佐田さんが、あの、私の信心を評して、神様から、お知らせを頂いておられるのに、瓢箪なまずの様なもんだと。ね。なまずを瓢箪で、掴もうと、こう言うのです。つかめられるはずがない。えー、今日の御理解の中にもありましたように、人が、私を、どんなに困らせようと、例えば、まぁ、計画してから、困らせようとしても、私は、何時の場合でも、一つも困ってない。と言うほどしにですね。私は、私の、どこを掴んだら、私が困るかという事を、誰でも分からんとです。もう、こればしたなら、違わんごと、合楽が困るじゃろと言うとこにゃ、私は、いっちょん、困っとらんとです。いや、むしろ、そのたんべんに、私は、おかげ頂いとるち言う。困る段じゃなか、ね。というように、その、ですからね、あの、ほんなら、今朝の御理解なんかは、私が、皆さんに、まぁ、いうなら、噛んで含めるように、しかも、私の信心の全てと言うて、あの、お話しました。あれだけなんです、実を言うたら。それでいて、ほんなら、掴めないという事は、確かに、ほんなら、難しいという事です、ね。ですから、ほんなら、例えば、うなぎならうなぎを捕まえる。そら、なかなか、捕まえられません。けれどもね、お互いの信心がね。のらりくらりしたごたる信心じゃ、絶対、瓢箪なまずですから、捕まる筈がありませんです。私の信心を体得することは出来ません。知っとるだけではつまらんです。そこに、うなぎが居るという事だけが分かったっちゃつまらんです。ほんなら、うなぎでも、ほんなら、つかみどころというものを、ちょっとしたら、こりゃね、うなぎの蒲焼なんかする、あの、板場の方達なんかは、簡単にちょっと掴んでから、こうやって、持ってこられるでしょうが。だから、そういう一つの、こつというものがあるという事。だから、私の信心を、本当に、頂いていくという事になると、のらりくらりの信心でね。もう、知っちょるばってん、例えばもう、あの、それを行にもなんにも現さんなら、もう、のろりくらりの、聞いとるだけですから、のらりくらりですたい。そら、のろりくらりの信心で、私の信心を、たとえば、把握するなんてことは、絶対出来ません。もう、本気で、その気にならなければ。そうすると、今度は、ほんなら、いっちょん、難しくなくて、楽しゅうして、有難うしてちいう事になってくる訳ですよね。
今、私、御神前に出たら、うなぎを頂いたんですけれどもね。まぁ、うなぎは、今、土用のうち、うなぎを食べると言うことは、大変、元気が出ると言われますけれどもね。やはりあの、本気で一つ、あの、頂く気にならなければね、元気も出ません。ね。また、頂く気にならなければ、体得も出来ません。いや、今日、私の信心の全ては、たった、あれだけかと聞けば、あれだけの事。だから、それを、自分の身に、その、頂いていこうとすることには、その気にならなければ出来るこっじゃ無い。もう、私の信心は、確かに、瓢箪なまずですよ。つかみどころがないです、ね。ですから、それでも、ほんなら、一つの、こつ相と言うものを、ね頂いたら、簡単に、ぎゅっと掴めれるという事。やはり、私の信心を掴んで貰わにゃいけませんから。ね。段々、これはもう、益々、頂難くなるだろうと思いますよ、私の信心は。と言うならば、難しゅうなるという事です。ね。ですから、その、御祈念じゃないですけれども、もう、本当に、御祈念をさせてもらうという事は、皆さんと私が、一週間に一遍するだけのことです。ね。天津祝詞でもあげて、あの、ね。拝詞でも奏上しながら御祈念をするという事は、私は、今、それを気付かせていただいた。ほう、私は、こういう御祈念な、一週間に一遍しかしよらんたいと思うてからね。どうぞ。もう、私が、黙ってご祈念するようになったら、皆さん、いっちょん分からんですよ。ね。ほんなら、私が、ここで、もう本当に、御理解、もう、黙りと同じ様な御理解になったら、もう、いよいよ、分かるはずはないです。